ペンは世界を貫く

いい加減な創作論、小説・漫画・映画のレビューなど

【創作論】 創作の構造について

※注 個人の思い込み 長文を読みたくない人は最後のまとめへ

 

 人の作り出すものは大体二種類に分けることができる。創造物と消費物である。創造物は歴史を作り出すものと思ってもらいたい。創造物の例を挙げるならば技術、思想、哲学、スポーツなど。なぜスポーツと思うかもしれないが後ほど説明する。消費物は工業製品や各種サービスあたりか。創造物、消費物のどちらにでもなれる物もある。創作品と呼ばれるものたちだ。絵画、小説、漫画、映画、音楽、料理といったものが創作品にカテゴリされる。創造物と創作品は同じ意味ではないことをまず語りたい。

 

 語るにしても創作品の範囲は広く、加えて文を書いている者に音楽・絵画の教養など無いので小説・漫画・映画という部分に絞って話を進めよう。

 

 さて、創造物と呼べる創作品は何だろうか。私見であるが創造物だと分かり易い例は二葉亭四迷の「浮雲」、手塚治虫の「新宝島」、黒沢明の「七人の侍」。質やら完成度やらは差がある三例であるが創造物であることは間違いない。では消費物の例も挙げてみよう。山田悠介の「リアル鬼ごっこ」、ネットビレッジ株式会社のゲーム及び漫画である「クロスハンター」、東映の「デビルマン」。恐ろしく分かり易いのが揃ってしまった。

 消費物三例から解説していこう。リアル鬼ごっこは題名のキャッチーさとは真逆の内容が悪い意味で評判となった作品だ。クロスハンターは絵柄がある有名漫画と全く同じであることから有名になった漫画である。映画デビルマンは伝説のクソ映画として名高い。

これらの共通点はクソであること、要は面白みが無いのである。

創造物三例はいずれも日本の近代史に名前が残っている。浮雲は言文一致文体で書かれた日本初の小説であり、新宝島は日本初の長編漫画、七人の侍はリアルかつ大作的な初の時代劇、邦画である。これらの共通点は時間経過によって色あせないこと、後世に多大な影響を残していることだ。

ここまで分かり易い比較だと長々説明することもないだろう。創造物と消費物の違いは革新性である。革新というと大仰なのでオリジナリティと表現しておこう。

オリジナリティは驚きと歴史を生み出す。創作品において驚きは非常に重要である。作品の寿命は驚き、驚異の有無によって大きく変わる。驚きが受け手の心に印象を残すからだ。

七人の侍はそのリアリティから多くの観客に驚かれた。観客には後に活躍するスピルバーグなどの監督が多数いた。彼らの心に残った七人の侍は現在の作品でも度々その姿を見せてくれる。

では映画デビルマンに驚きはあっただろうか、歴史になっただろうか。

 ……驚異的な作品かつ歴史に残る作品ではある。しかしそれは度合いのひどさによるものであり決してオリジナリティではないはずだ。まさか平均演技力の低い俳優陣とオリジナリティ溢れる作品の実写化であることをオリジナリティとか言わないよね。まあ別の意味で歴史を作り多大な影響を及ぼしてはいるが……

 

 映画版デビルマンはともかくとして消費物である創作品から受ける印象はあまり無い。これまでに読んだあるいは見た作品のシーンをあなたはどれほど覚えているだろう。傑作ならいくつでも挙げられる。しかし凡作、駄作なら名前も思い出せないかもしれない。

 受け手の印象に残らない作品は消え去るほかない。消費されてしまうのだ。消え去ってしまえば作る必要がなかった、あるいはそもそも存在していないことになる。一方で傑作の印象は長く残り、歴史として積み上がる。

 “積める”かどうかがまさしく創造物と消費物の違いとなる。技術は今までの積み重ねの上に新しいものを積み、それが次の技術の土台となる。スポーツも積み重ねる創造物といえる。プロの試合に同じものは無くオリジナリティに溢れ、驚異に満ち溢れる。人々は未だ見たことの無いあるいは印象的なプレーを求めてやってくる。驚異が好奇心という根源的な欲求を満たしてくれるのだ。

人が創造に惹きつけられるのは創造そのものと創造物の鑑賞から得られる驚異を体験したいからである。

 

創造の魅力を語ったところで政治や主義、商業と結びつくことによって消費型創作品が消えにくくなるとどうなるのかという話に進もう。

創作品の受け手が多様かつ変化しやすい一方で技術やスポーツの受け手はそこまで多様では無いし変化もしない。作り手(研究者、選手)の勝利や向上を望みその逆はほぼ存在していないのである。

そして作り手は受け手の中から生まれてくる。これは全ての創造物に共通している。

技術やスポーツの作り手には一貫したものが求められるのだが、創作品は作り手に転じる受け手が見てきた創作品によって変化してしまう。そうして生まれた作り手が消費型創作品に埋もれた創造型創作品を知らず“積む”ことの意味を知らないとどうなるだろうか。その作り手は新しい驚異を作らずに過去の傑作の驚異を切り貼りして再現しようとするのである。しかし既視感のあるものに驚異は存在せず、それは消費型創作品となる。

こうして生まれた作品が消え去っていかないことでさらに消費型の作品がねずみ算的に増加する。やがて創作品の驚異を奪い取り、創作品そのものを消し去ってしまう。

恐ろしいことに消費型創作品には積まれてきたものを“崩す”力がある。こうした事態を防ぐにはどうしたらよいのか。作り手、観客と話してきてようやく批評者の登場だ。

批評者は創作品の種類を判別する役割を担っている。どれが創造型で消費型なのか多くの観客いわば大衆はあまり気にしないが作品をよく吟味しラベルを貼っていく。なぜそんなことをしているのというと今まで長々と話してきたことが理由だ。彼らは創作が“崩れる”ことのないようにせっせと批評している。

彼らが“積む”にふさわしいとした作品を観客は改めて査定し創作の塔へと積んでいく。批評者と観客の関係はこんな具合である。当然、観客は批評者のすすめる作品を突き返すことができるし批評者が捨てた作品を拾うこともできる。大半の観客は渡されたものに対して何やかんやと語ったりはしないのだが。

 

最後に分かり易く各要素を物質化してまとめよう。

まず3つの集団がある。作り手、批評者、観客だ。各集団の行き来は自由で同時に所属できる。

1つの創作品は1つのレンガと考える。創作品という概念は塔と考える

 

作り手はレンガを作る

批評者はレンガの質や特徴を調べる  

観客は塔にレンガを積む

 

作り手から批評家・観客にレンガが渡される

批評家はレンガが表面から分かること以外に強度や欠陥を批評家と観客に伝える

観客は無数のレンガから創作の塔へ積むべきものを作品そのものや批評に基づき選ぶ

 

塔は観客が共有するものと個々で作るものがあり、共有する塔は観客全員で積むレンガを決定し際立って高くする必要がある。一方で個々の塔は観客個人が自由にレンガ積むことができる

 

塔が高いほどその下に人が集まりやすく、集った者たちは新しい観客へと変化する

積まれた塔は観客に管理され、構成するレンガの研究が行われることもある

 

積まれたレンガは塔が崩れないかぎり、残り続ける

積まれなかったレンガは風化して消え去るか砕かれて新しいレンガの材料となる。

 

これが創作品と作り手、批評者、観客の関係である。ちなみに創作に携わる人々は創作の塔の上に立っているので塔が崩れれば当然死ぬ。塔にいる人々が減れば管理が滞り崩れる。死を免れるためには塔を高くして人を集めなければならない。ゆえに作り手は“積む”ことを目指して創作品を作り、批評家は“積める”のか精査して、観客は正しく“積む”べきである。この三すくみのうちどれか一つが欠けると塔は崩れる。ある集団がもう一つの集団を排除しないようにしてほしい。批評家集団は特に嫌われているので気をつけるように。

 

「創作は塔である」 今回のポイント

 

以上が創作と呼ばれるものの構造である。実際は貨幣がさらに創作へと絡みついてもっとややこしいはずだが今回は割愛する。       

この創作論を基本としてこれからのレビューを書いていこうと思う。ご清覧ありがとう。ではまた次回